【5/7 21:00~】Skype読書会 第二回「マッキノンを読む~ポルノを規制するとはどういうことか?」
東京都が青少年健全育成条例の内容を改正し、マンガやアニメなどの創作物を対象に、「非実在少年」という概念を作り出し、表現規制を強化しようとしていましたが、漫画家などからなる抗議により見送りとなりました。しかし、継続審議で6月に持ち越されています。
東京都の規制反対派の意見としてはほぼ出尽くされた感があります。
主張は一貫しているように見受けられます。
「実在の青少年を扱った児童ポルノは犯罪であり、そこは取り締まるべきである。また、実在のポルノ出演者などに対する労働環境の改善や事前の確認などをしっかり行う必要がある。創作物である二次表現を取り締まることと同じテーブルで論じるべきではない。創作物を取り締まることは「東京都」が「よい表現と悪い表現」を決定することになり、それは表現の自由を侵害することである。しかし、ポルノを見る権利と同等に見たくない権利も守られるべきであり、その手法としてはゾーニングがもっとも適しているのではないか?」
というのが、反対派の主張の内容だとナガノは理解しています。細かい齟齬はありますが、ナガノはこの立場です。
TBSラジオのDigで児ポ法を特集したとき、荻上さんのコメントで「意見が偏るといけないと思って、数十人の規制賛成派の方に声をかけさせていただいたのですが、NGでした」という趣旨の発言があります。http://www.tbsradio.jp/dig/2010/04/dig-4.html
先日の第一回のskype読書会でも参加者同士に意見の違いがなく、議論に発展しにくいという問題点が浮き上がりました。
そこで、第二回はポルノ規制などを論じたの本を通して、議論を発展させることができればと思っています。
- 日時:5月7日(金) 21:00~23:30 (仮予定)
- 場所:skype@nagano_haru or UST@nagano_haru
- 注意事項: 声が聞こえにくいので、マイクはご用意ください。(ノートPCの付属マイクなどだと、タイピングの音が聞こえてしまい支障が出る場合があります。事前にskypeの音声テストなどは済ませておいてください。
- 課題図書:マッキノンの著作を読んできてください。
ポルノグラフティ「平等権」と「表現の自由」の間で C・A・マッキノン
ポルノグラフィと性差別 C・A・マッキノン ドウォーキン
フェミニズムと表現の自由 C・A・マッキノン
- 主催者:ナガノハル(skype id nagano_haru)
- 進行:ぐだぐだ&ゆるゆる
- 用意するもの:飲み物・お酒・おつまみ等々・・・・・のんびりとやりましょう。
- 参加するには?:http://twitter.com/nagano_haruまで@ください。
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参考資料 1

参考資料 2

参考資料 3
「ラディカル・フェミニズム小史」
リベラル(注1)・フェミニズムは近代人権思想にその端を発していることからも明らかなように、近代的人間観に基づく平等を要求してきた。
しかし、ラディカル・フェミニズムは「女も人間である」というときの「人間」という中立概念に暗黙のうちに潜む性的偏向こそを、告発の対象としたのである。
「人間」という言葉を使うとき、「男性=標準」「女性=特殊」という使われ方が暗黙に行われてきた。
「女も人間である」というとき、女は「人間」に入っていない。
ジャン=ジャック・ルソー(1712~1778)はフランス革命やその後の思想にも影響を及ぼした「社会契約論(1762)」の中で、人間の自由について表したが、彼のいう「人間」には女は含まれていなかった。
「エミール(1762)」では教育論を記したが、女性教育については、第5編にて別立てで論じられており、「女性は子供を育て、家を守るべき」だという19世紀以降の主流を占める女性観が述べられている。
このようなルソーに源流をみることができる人間観を背景に成立してきたのが「女も人間である」のリベラル・フェミニズムである。
ラディカル・フェミニズムは「女も人間である」と言われたとき、その「人間観」自体を問う。
言語をこのようなラディカル・フェミニズムから見てみると「man/wo-man」「医者/女医」などの「有徴化」がなされていることが発見される。
「有徴化」とはある特徴を積極的に示すことである、それは主に「女」になされていることが多い。
ミッキーマウスはリボンがついているのに、ミッキーマウスにはリボンがついていないというような表現も「有徴化」に含まれる。
日本においてのラディカル・フェミニズムの始祖は1970年代のウーマン・リブに求めることができるといわれている。
平等の前提となる人間像そのものが男性を基準とした人間概念を含んでいる場合、女は市民権を獲得したところで「二流市民」にとどまるしかないのである。
こでは労働の現場で現在も起こっていることである。
男女雇用機会均等法は「総合職/一般職」という区分けで、「総合職=男+男なみの女」「一般職=嫁候補の女」という扱いを温存した。
なによりも、「男の身体」を標準としえて考えた場合、「妊娠・出産」は労働者としてハンディキャップとみなされ、「二流労働者」に留め置かれるしかない。
ラディカル・フェミニズムの有名なスローガンに「個人的なことは政治的である」がある。
これは、女を取り巻いている「個人的な」家族関係こそが、性差別の温床であることを告発する言葉である。
そのようなラディカル・フェミニズムを背景に「すべての女に共有されうる課題である」として、強姦・セクハラ・性暴力そしてポルノグラフティへの告発へと分野を広げていく。
そこで「ポルノと表現の自由」についての発言を多くしているのが、キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンである。
(注1)リベラリズムとは?
リベラリズムとは自由主義(liberalism)のことであり、自己と他者の自由を尊重しうる社会的公正を思考する思想。
by@nagano_haru(2010/04/16)
参考資料4
『インターナショナル・ビューポイント』のフェミニズム特集によせて
かけはし1998.4.6号キャサリン・マッキノンの擁護
岡崎 等
はじめに
キャサリン・マッキノンは、アメリカの著名なラディカル・フェミニストであり、1970年代にセクシュアル・ハラスメントを法的に規制する立役者となり、80年代以降はポルノグラフィの問題に取り組み、アメリカで最も論争の的になっている人である。
その彼女が、1995年に来日し、各地で講演会を行なった。講演の一つを主催したのは日本の自由人権協会であり、その講演の一部は、本紙の95年11月20日号に「ポルノグラフィと表現の自由」という表題で掲載された。
ところが、皮肉なことに、アメリカにおいて最も激しくマッキノンを攻撃しているのは、アメリカの自由人権協会なのである。とくにその会長であるナディン・ストローセンは『ポルノグラフィの擁護』という大部の著作を出版し、その中で、マッキノンとその同僚であるアンドレア・ドウォーキンを口汚くののしっている。
ストローセンは、マッキノンとドウォーキンを縮めて「マック・ドウォーキン」と呼び(スターリニストがトロツキストのことを「トロ」と蔑称したように!)、両名を「言論の自由」の敵、保守派の走狗、反セックス十字軍、ヴィクトリア朝フェミニスト、等々として描きだしている。マッキノンとドウォーキンの理論や、また彼女らの起草した「反ポルノグラフィ公民権条例」をめぐって、これまでも無数の非難や中傷が出されてきたが、この著作はその集大成とも言うべきものである。
だが驚くべきなのは、このひどい著作を天まで持ち上げる書評(筆者はキャシー・クローソンで、ソリダリティ・グループのメンバー)が、アメリカのラディカル派左翼の機関誌である『アゲンスト・ザ・カレント』に掲載され、あろうことか、『インターナショナル・ビューポイント』の最新号(98年3月号)に転載されていることである。
『ビューポイント』編集部の基本的スタンスは、アメリカにおけるポルノ論争をさまざまな立場の人に論じてもらうというものであり、けっしてこの書評を推薦しているわけではない。マッキノンらと立場の近いダイアナ・ラッセルのインタビューも転載されている(なぜマッキノンやドウォーキンに直接インタビューしないのだろう)。しかしながら、特集冒頭のリードにおいて、編集部はマッキノンとドウォーキンを「検閲を支持」する立場として不正確に紹介しており、また、転載している三つの記事のうち、二つが明確にポルノ擁護派のものであり(注1)、全体として、反マッキノン派に与しているという印象をぬぐえない。
男性一般を敵視しているというウソ
ストローセンの著作も、クローソンの書評も、マッキノンとドウォーキンに対するデマゴギーと誹謗中傷、侮蔑的非難に終始している。たとえば、クローソンは何度も何度もマッキノンらの立場を「反動的」と記述し、「哀れなアンドレアとキャサリン」とわざわざファーストネームで呼んで嘲笑し、「気違いじみた(rabid)」、「とち狂った(to madness)」と繰り返し差別用語を使って罵倒している(Cathy Crosson, The Sex censors, International Viewpoint, no.298, March 1998, pp.23-24)。
クローソンらの論点は主に2つあって、一つは、マッキノンとドウォーキンの一般的な理論的立場を歪曲して攻撃するものであり、もう一つは、ポルノ規制を盛り込んだ彼女らの「反ポルノグラフィ公民権条例」が国家による検閲を要求するものであり、表現の自由を犯す反動的なものであるという批判である。
まず第一の点に関して、ストローセンおよびクローソンは、マッキノンらが男性一般を敵視していると論難する。これは、マッキノンらに対しこれまでさんざん浴びせかけられた誹謗中傷の再現でしかない。しかも、その証明はきわめて杜撰である。たとえばクローソンはストローセンにならって次のように言う。
「『オンリーワーズ』という著作の中でマッキノンは、男性を攻撃用の犬(attack dogs)に見立てており、男性をポルノグラフィにさらすことは『訓練された番犬に「殺せ」 と言うようなもの』だと論じている」(ibid., p.24)。
『オンリーワーズ(単なる言葉)』は、『ポルノグラフィ――「平等権」と「表現の自由」の間で』という表題で明石書店から翻訳出版されている。クローソンが引用したのは、その翻訳書の29頁の部分だが、その部分を前後の文脈から切り離さずに素直に読むならば、この部分から「マッキノンが男性を攻撃用の犬に見立てている」という非難は出てこようもない。
「女を犯せ! 縛れ! 切り刻め!」と絶えず扇動しているポルノグラフィを「表現の自由」の名のもとに擁護することができるとすれば、かつて60年代の公民権運動において、デモ中の黒人たちにドーベルマンをけしかけた白人警察官の「殺せ!」という言論を、「表現の自由」の名のもとに擁護することもできるのではないか、そのような言論は「単なる言葉」ではなく、明白な実践であり、行為である、というのが、この部分でマッキノンの言いたかったことである。男性一般を「攻撃用の犬」に見立てることなど、まったく論外である。
一事が万事この調子である。文脈から一部の文章を切り離して引用し、そこに勝手な解釈を加え、相手の主張を歪め戯画化し、その上で相手を論難するという手法は、スターリニストをはじめとして多くの偽造学派たちが好んで用いた手法だが、ストローセンとクローソンのやっていることは、まさにそれである。
そもそもマッキノンらが、生物学的な意味での男性一般を女性の敵として描くような立場に立っていないことは、彼女らの著作を偏見なしに読めばまったく明白である。それどころか、マッキノンは、男性を生まれながらに「女性の捕食者」として描きだしているスーザン・ブラウンミラーの立場を「生物学主義」として厳しく批判しているほどである(MacKinnon, Toward a Feminist Theory of the State, Harvard University Press, 1989, p.56)。
だが、いずれにしても明らかなのは、隅々まで性差別が浸透している現代社会において、男性一般が性差別主義的イデオロギーや実践から完全に免れたり、とりわけセクシュアリティの性差別的歪みを経験しないですむということは絶対にありえない、ということである。その意味で、マッキノンらが「男性的なものの見方・行動・セクシュアリティ」を性差別的であるとして厳しく攻撃するとき、その非難は――この文章の筆者を含めて――99%以上の男性にあてはまる。
セックスとレイプを同一視したというウソ
ストローセンとクローソンの好むもう一つのマッキノン攻撃は、マッキノンらが、セックスをレイプと同一視しているというものである。これは、アメリカの『プレイボーイ』と『ハスラー』が繰り返しマッキノンらに加えてきた中傷とまったく同じである。
そして、その証明はまたしても杜撰である。一例を挙げておこう。クローソンは、いかにドウォーキンが性交そのものを否定していたかを証明しようとして、次のような文章をドウォーキンの『ポルノグラフィ』から引用している。
「妊娠は、女が犯されたことを確証するものである。……妊娠は、女がセックスに参加したことへの罰である」。
この引用文は、翻訳の『ポルノグラフィ』(青土社)の383~384頁にある。この文章だけを見て読者はどう思うだろうか。明らかにドウォーキンが妊娠そのものを否定し、したがって性交そのものを否定しているまぎれもない証拠に見えるだろう。だが、この文章は、いわゆる「妊婦ポルノ」が描きだす妊娠像ないし妊婦像を指摘している文脈の中にある一文なのである。すなわち、妊婦ポルノを製作する者、あるいは、妊婦ポルノを見て興奮する男性にとっては、「妊娠は、女が犯されたことを確証するものである」という意味なのであり、「妊娠は、女がセックスに参加したことへの罰である」という文言もこの流れの中でのメタファにすぎない。またしても、一事が万事この調子である。
ドウォーキンは『インターコース』の中で次のように書いている。
「レイプと売春は、自由としてのセックス――十分に人間的である者が、十分に人間的な自由をもって選択する経験――を著しく妨げる制度とみなさなければならないだろう。強姦と売春は、女にとっての自己決定と選択を取り消すものである」(『インターコース』、青土社、247頁)。
ドウォーキンにとってレイプとセックスがそもそも同じものなら、以上のような文言はまったく意味不明になるだろう(注2)。
またマッキノンは、異性間性交そのものを「女性の侵害(invasion)」であるとするレズビアン分離主義者の理論とその解決方法(男性との性交の拒否とレズビアニズム)を誤った「生物学的問題設定」の「生物学的解決」として厳しく退けている(Toward a Feminist Theory of the State, p.57)。
だだはっきりしているのは、男女が構造的に不平等で、男性が支配的な地位にあるこの社会において、セックスのときだけ男女が完全に平等になれると考えるのはナンセンスだ、ということである。この苦い真実をマッキノンとドウォーキンはきわめて鮮烈な言葉で表現したために、セックス一般とレイプを同一視しているという非難を招くことになった。だが、マッキノンらが言ったのはせいぜいのところ、この性差別社会の中ではセックスとレイプとは連続しており、両者の間に万里の長城はないということだけである。だがこのことと、セックスはすべてレイプである、という命題とは同じではない。
マッキノンは言う。「セックスはすべてレイプであると私……が言ったという主張は、政治的中傷であり、事実の歪曲である。……私たちが実際に言ったのは、性的なもの(セクシュアリティ)がジェンダーの不平等という文脈の中で起きているということだけである。そして、この事実は、いかなる憎悪扇動家たちでさえいまだ反駁しようとしたことはない」(MacKinnon, Pornography Left and Right, Harvard Civil Rithts-Civil Liberties Law Review, vol.30, no.1, 1995, pp.144-145)。
国家による検閲を主張したというウソ
ストローセンとクローソンがとくに怒りを露わに糾弾しているのは、第二の論点、すなわちマッキノンとドウォーキンが起草した「反ポルノ公民権条例」である。
マッキノンらは、あからさまに人種差別的な言論を大っぴらにメディアや公的場面で宣伝することが規制されているように、ポルノグラフィを通じたあからさまに性差別的な扇動を法的に規制する道を探った。
ことが「表現」にかかわるだけに、マッキノンらは慎重に条例案を練り、国家権力が主導権をとる刑法としてではなく、ポルノによって直接被害を受けた女性が主導権をとれるように、民事訴訟を可能にする公民権法として起草した。さらに、その法案において、ポルノグラフィを「性表現一般」や「わいせつ」としてではなく、「文章や写真や映像を通じて、性的にあからさまな形で女性を従属させる[貶める]表現物」として具体的に規定し、かつそれに該当する内容を具体的に列挙した。
しかしながら、この条例案は、「表現に対する国家権力の検閲」を要求するものだと歪められ、反対派たちはマッキノンらに「検閲派フェミニスト」というレッテルを貼って、反対の大キャンペーンを展開した。しかしながら、この条例案が「検閲」を要求するものでも、あるいはそれを招くものでもないことは、よく読めば明白である。
マッキノンを「検閲派」として糾弾する人々の論理は、結局のところ、ブルジョア・リベラリズムの論理である。この社会で最も悪いのは、資本の権力でもなければ、男性至上主義の権力でも、人種差別主義の権力でもなく、国家の権力であり、この権力からさえ自分たちの「表現」が守られれば、「表現の自由」は安泰であるというのが、こういう人々の根底にある発想である。
それに対してマッキノンは言う。ポルノグラフィが、「女性は強姦され、縛られ、殺されることを実は望んでおり、その中で真の快感を覚えるのだ」と、毎日のように大量宣伝し、その通りに女性を扱うよう男性を扇動しているこの社会の中で、女性の「言論の自由」がいったいどこにあるのか。「私は強姦されたくないし、強姦になど快感を覚えない」と語る女性の言論が、ポルノグラフィのせいで社会的に信じられなくなっている状況のもとで、どうして女性にそもそも「自由」や「自己決定」が存在するのか。
このマッキノンの主張は深く真実であり、まともな左翼なら絶対に否定できないはずである。
マッキノンとドウォーキンの擁護
マッキノンとドウォーキンは、フェミニズムに新しい地平を切り開いた。彼女らは、60年代の黒人解放運動においてマルコムXが果たしたのと同じ役割を、80~90年代のフェミニズム運動において果たしている。マルコムXも当時、「憎悪扇動者」、「白人を敵視する危険人物」、「黒人解放運動を混乱に陥れる反動家」などと、主流のリベラル派公民権運動家と階級還元主義的マルクス主義者の双方からののしられた。
その時、アメリカ社会主義労働者党(当時は第四インターナショナル・アメリカ支部)とその中心的理論家であったジョージ・ブレイトマンは敢然とマルコムXを擁護し、かくして、アメリカのラディカル左翼の中で真に名誉ある地位を確保した。メッカに行く前のマルコムXが「白人はすべて悪魔である」と言い切っていたにもかかわらず、である。
一方、「男はすべてレイプ魔である」と言ったわけでも書いたわけでもないマッキノンとドウォーキンは、マルコムX以上の非難と中傷を浴び、彼女らを敢然と擁護するマルクス主義者はどこにもいない。それどころか、『アゲンスト・ザ・カレント』は反マッキノン派の誹謗中傷をそのまま繰り返す書評を無批判に掲載する始末である。
マッキノンとドウォーキンに対する八〇年代半ば以降の猛烈な攻撃は、実際にはバックラッシュの一環であり、社会の右傾化の一表現である。ラディカル派左翼がその攻撃に加担したことは、その名誉を徹底的に失墜させる行為である。はたして九〇年代のトロツキストは、左翼の名誉を救い、マッキノンとドウォーキンのような真に革命的なラディカル・フェミニストの信頼を勝ち取ることができるだろうか。
1998年3月22日
(注1)典型的にリベラル・フェミニズムの立場になったクローソンの書評と、もう一つは「社会主義」フェミニズムの立場からするポルノ擁護論(ナンシー・ヘルツィヒとラファエル・ベルナベ)である。後者に対する詳しい批判は、紙幅の制限上、割愛させていただく。
(注2)ナンシー・ヘルツィヒも、このポルノ特集の前に掲載されているもう一つの論文において、あたかもドウォーキンが『インターコース』の中で、「男女間におけるすべての性的交わりは事実上レイプであると結論づけている」(Nancy Herzig, The New Orthodoxy: Women and Sex, International Viewpoint, ibid., p.18)かのように書いているが、その証拠を何一つ提示していない。
http://www.jrcl.net/frame13a4.html
セクシュアリティ中心主義への問い―キャサリン・A・マッキノン理論の検討― 南茂由利子
http://www.nwec.jp/jp/data/journal809.pdf
ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性 (単行本) ナディーン・ストロッセン
セクシュアル・ハラスメントの濫用、ポルノグラフィ規制がすすむアメリカで、フェミニストの法学者、ナディーン・ストロッセン(アメリカ自由人権協会会長)が、表現の自由を守るためにポルノ規制に真っ向から反論、批判した書です。
ポット出版より2004年5月に刊行した 『セックス・フォー・セール──売春・ポルノ・法規制・支援団体のフィールドワーク』 に続く、松沢呉一氏監修による「アメリカの性にまつわる規制事情」を知るための第二弾です。
「不快」というキーワードでセクハラだと認定され、規制へと動くアメリカの現実に、そんなことまでセクハラだと認めていいのか! と思わずつぶやきたくなる場面も。
松沢呉一氏による「解説」も収録しています。
ここで、読めるよ↓
http://books.google.co.jp/books?id=MDViFZFKkegC&printsec=frontcover&dq=ナディーン・ストロッセン&source=bl&ots=4Btq7fSMpb&sig=JOUyF2IJ6U8fgMpPDOE0SBMHdsk&hl=ja&ei=K6zQS8XOLYHc7APVy8WJDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CBAQ6AEwAjgK#v=onepage&q&f=false
性の倫理学の可能性をさぐる 江口聡(参考文献集)
http://melisande.cs.kyoto-wu.ac.jp/eguchi/papers/rinrigakkai2008.pdf
資料6 マッキノンの論点どこか? by森
1.事実か当為か
ぼくはポルノ問題は大きく2つに分けて考えるべきだと思いました。
1つは(A)事実の問題。そして、もう1つがto do、(B)どうすべきかって問題です。
この2つはまったく別の事柄です。当たり前のことなんだけど「ポルノ暴力即規制」とか、
「無害故に規制NG」という論点になりがちで、どちらも極端です。
「ポルノは暴力になりうるし、一定の被害を与えるが、規制はすべきではない」とか、
「規制すべきであるが、規制した場合の害の方が大きいので規制はムリ」だとか、
いろいろな論点があると思うのです。このことがしばしば忘れられがちだと感じます。
2.ポルノの定義の問題
(A)事実の問題としては、論点が2つあると思います。
1つは(1)ポルノグラフィーとは何か、ポルノの定義の問題であり、もう1つが、
(2)「ポルノ」によってどのような被害が生じているのかです。
まず(1)について。ぼくはこれには特に関わる必要がないと考えています。
長野さんも指摘されていましたが、たとえば、ポルノの定義が「映像や言葉を通じて
女性を従属させるような性的にあからさまな素材」というだけでは「はあ?」です。
この点、マッキノンらも混同しており、自身の論点のよいところが何なのか、
わからなくなってしまっているように思えます。
そもそも何が「性的か」からして受け取る人によって異なるでしょうし、
だからこそ問題になっている。内容そのものによってポルノかどうかを決める場合、
それを規制するとなると、これは相当難しいことにもなってしまいます。
ぼくはマッキノンらの優れている点は、むしろそのような「曖昧なポルノ定義」から
離れ、「ポルノは具体的な被害者を出しているんだ」=「被害者がいるものが
ポルノなのだ」とした点にあると思っています。逆説的だけど。
もちろん被害者がいるものがポルノなら、ポルノは必然的に「悪」になります。
ですから、「悪なのだから取り締まれ」と言うだけでは、定義からして完全に
論点先取の循環論法。なのだけれど、このように問題設定することで、或るものが
ポルノかどうか、或るものが表現か表現でないのかという論議にかかずらう必要
なしに、「何を問題にすべきか」がハッキリします。
被害者があるものを問題にすべきなのです。単に被害者がいると言えるのか、
どういう意味で言えるのか、だとしたら何をすればいいのかってだけですからね。
(仮に「表現」であっても、他者に危害を加えているのだから取り締まるべき、
という論点だってありうるし、表現か暴力かみたいな問題の立て方は言葉に引きずられて
価値対立を生みがち)
もちろん、実際に何らかの法規制をするときには、具体的にどのような「表現」、
「マテリアル」が、被害事実の対象となる可能性があるのかについて、
細かに見ていく必要がありますが。
3.「ポルノ」による被害とは
というわけで、(A)事実として問題なのは(2)ここで言う、被害がどのようなものなのか、
果たして本当に「ポルノ」と呼ばれるものによる被害なのかという点につきるのではないか。
で、(2)「ポルノ」と呼ばれるものによる被害には具体的にどのようなものがあるのかだけど、
マッキノンらはいくつか挙げています。ポルノに出演させられたり、無理矢理見させられたり、
ポルノが引き金になってレイプをされたり、アイコラのように人格を貶められたり、あと、
これが非常に問題なのですが、女性を従属的位置に貶めたり、二級市民扱いするケースです。
マッキノンらは、こうした被害について、どんな人であっても訴えられるという法令案を
作成しています。ですから、この案を認めたら結果的にポルノは根絶されることになる(笑)。
だけれども「国家が内容を見て取り締まる」のではなく、「被害者が被害を受けたといって訴える」
ものに、体裁上はなっている。この点がミソです。
読書会ではこの被害について、どこまでの種類がまず、端的に「被害」として認められるのかを、
議論してみてはどうかと思っています。で、次に「ではどうするか」。被害だといえたからといって、
即効規制すべき、やめさせるべきという論点にはならないと思うんですね。
特に、長野さんもおっしゃるように「黒人差別的なヘイトスピーチと、女性や子どもを
「従属的地位」におくポルノを同列に語ってよいのか」というのは確かに「ん?」となるところ。
なぜ違うと言えるのかを議論するといいのかもしれません。
ちなみに現時点ではぼくは、人種差別のヘイトスピーチとマッキノンらが批判するポルノとの間に
差異は見いだせない、との方向で考えてみようと思っています。
なので、こうした象徴的な効果も「ポルノによる被害である」と認めてみてはどうかと。
ただ、それを取り締まることが果たして効果的なことなのか、という点から、規制やマッキノン流の
法案の一部に対して反対というスタンスです。
たとえば「女性が性的にいつも「欲っしている」状態だと描く」マテリアルも、
マッキノンらは「女性の従属化」であると考えているのですが、ぼくはそうだとは思わないといった
微妙な点もあります。ここらへんの細かい話も読書会か、その前の段階で検討したいですね。
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参考リンク
「非実在青少年」問題に関する真夜中の激論
現実だろうがファンタジーだろうがレイプはレイプ、被害者は存在する。恥を知れエロゲバカどもが!!
タグ 東京都青少年健全育成条例改正‐ニコニコ動画(9)
PDF 「東京都青少年健全育成条例改正案」に対する意見書 3/13 京都精華大学 マンガ学部長 竹宮惠子、京都精華大学マンガ学部 教授会一同